「春琴」

世田谷パブリックシアターで、奇跡的に学生席が1席だけ空いてたので見に行ってきた。
サイモン・マクバーニーという演出家の目を通すと谷崎の「春琴抄」と「陰影礼賛」をどう解釈されどう再構成されるのか、わくわくしながら。
その期待は裏切られず、むしろ期待を上回るほどの作品だった。


まず、一番心を動かされたのは、流れるような展開。
普通舞台というと、装置を動かしたりするための「暗転」があるが、この作品ではむしろ装置を動かす作業や、着替えまでもが、演技に組み込まれていて、場面をつくるために演技がストップするということがなかった。
特に感動したのが、「畳」のつかいかた。「畳」を6つ、くみあわせると6畳の「部屋」ができあがる。けれど、それを縦にならべると「廊下」になったり「道」になったりして、空間が一気に広がるのだ。
また、細い木の棒も空間をつくるのにずっと使われつづけていた。冒頭の部分では「卒塔婆」として、あるときは部屋を表すためのわくぐみとして、あるときは三味線として。ただの棒が空間をつくる道具としてあまりにも自然に使われているために、その空間にぐいぐい惹き込まれてしまった。


そして、うまいなーと思ったのが「闇」というテーマの扱いかた。
新聞の評にも書かれていたけれど、作品は「春琴抄」をなぞっているが、根底には「陰影礼賛」への意識があるということを、衝撃的な最後の演出に感じさせられた。
失明後の佐助がいっていたように、盲目となり「闇」の世界の住人になってからのほうが、ものが良く見えるのであれば、
果たして昼夜とわず煌々とした明かりのもとで暮らしている現代の世界は、本当に「ものがよく見える」世界なのだろうか。最後の演出はそんな問いを投げかけている気がした。
私たちは本当に見るべきものを見ているのだろうか?
見たいものだけ光に照らし、見たくないものは闇へ放り投げていないだろうか。


「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙2 4.18)
中高と学校で聖書をよまされた中で、唯一わたしの心にのこった言葉だ。
光に照らされて見やすくされているものにとらわれるのではなく、闇のなかで見えなくされているものにこそ、目をそそぐ。
その大切さを、この作品を通してまた考えさせられた。


それにしても、外国人の監督がつくる舞台作品というのは面白い。いつも何か新しい世界を見せてくれる。
今年に入ってから、そんな作品しか見ていないけど(笑)。
この前シアタートラムでみた、マレーシアの監督3人による合同作品も、かなり難解なところもあったけど日本人では扱えないであろうテーマ(マレー語、タミル語、中国語というマレーシアにおける言語の分裂)を描いていて、すごく面白かった。
「マレーシアではブミプトラ政策がとられていて・・」などと教科書の知識だけを持っているのと、それを皮膚感覚で体感しているのとは、当たり前だけどぜんぜん違うんだなって思った。


こんな問題がある、あんな問題がある、と論文や新聞に書きたてるのは簡単なことだ。
でもその問題を、人の皮膚感覚にまで訴えようとする試みには、必ず生みの苦しみがあるだろう。そのぶん、その問題を皮膚感覚で受け取ったものは、その衝撃を忘れない。


私はそういう試みに挑戦する舞台監督や映画監督を心から尊敬しているし、できれば自分も人生のどこかでそういう試みに挑戦してみたいなぁと思う。