はっけん!

英Ⅰの教科書のなかに、こんなよいことが書いてありました。

芝居というものは、昔もいまも、いわば自然に対して鏡をかかげ、善はその美点を、悪はその愚かさを示し、時代の様相をあるがままにくっきりとうつし出すことを目指しているのだ。
ハムレット第3幕第2場)


芝居に限らず、私は舞台そのものが好き。
自分が中高と部活でダンスをやっていたことが大きな影響だと思うけど、観客に自分たちの作品がどう映るのか、ずっと考えてきた。その「まなざし」の暖かさも冷たさも知っているし、逆に自分が舞台を見に行って「まなざし」の送り手になったときの何か大きな権利を手にしたような感じ・・うまくいえないけどjudgeになったような・・そんな感じも自覚している。


表現を通して人に感動を与えること、もちろんそれは舞台の大きな存在意味であると思う。
でもさっきの引用のように、その時代を映し出す鏡としての役割も確かにあるなぁと今頃気付かされた。


舞台には、コンテンポラリーダンスというものがある。
部活でも取り組んでいて、「なんだよコンテンポラリーって」と思いつつ、整った形を基本とするバレエとは真逆の、身体から湧き上がるような形になるかならないかという繊細な動きに惹かれていた。
大学に入ってコンテンポラリーダンス好きの教授に出会い、その授業を通してピナ・バウシュというダンサーを知った。
2回彼女の公演を見に行ったが、彼女こそ、まさに時代を映し出す鏡として舞台を創っていると思う。
人と人(多くの場合、男と女)がすれ違い、うまくコミュニケーションできない<苦しさ>
「カフェ・ミュラー」という作品に体現されているように、それが彼女の舞台の根本にある。
現代にいきる多くの人が普段感じていても形に表すことなく抑圧している<苦しさ>
それをわざわざ舞台に引っ張り出して表現することで、観客は体の芯を揺さぶられているような感覚になる。
わたしも、形にできないものをなんとか形にしようとしたときこうなるんだ・・と衝撃を受けた一人である。


今日日本文化財団からのDMで、ピナ・バウシュに続く先鋭のアラン・プラテルの作品「聖母マリアの祈り vsprs」が今年5月日本で上演されると知った。
パンフレットには、「国際社会が平和と安定の方向を見出せない状況にあるとき、その苦しみや苦しみのかたちをヒリヒリするほど美しく語りかけてくる」とある。
見に行かなければ。