毎日かきます。

「人とつながりたいなら、自分のなかにあるものを出して、表現するしかない。自分の中にある、感情、想い、考え、を、言葉なり、行動なり、生き方なり、何かの手段で、カタチにして、人に見せる必要がある」

今日読んだ、山田ズーニーさんという方のコラムのことば。
本当に、今の自分がいちばんやらなければならないことは、自分の中にあるものを人前で出してみて、それに対する反応をもとに、考えていくことだと思う。産婆法みたいなかんじ。

自分の頭で考えることはすごく大事だけど、一人でうじうじ考えているとどうしても自分の枠の中で考えてしまう。
人とつながることは、その見えない枠を見えるようにしてくれることだと思う。
だから、つながる手段としての言葉は本当に大事なものなんだと今さら気付いた。
そして、書くことというのは言葉を大事にするための一つのいい訓練だと思うので、できるだけ毎日書こうと思うわけです。


「異文化の波」を読んでる最中、河合準雄さんの追悼記念番組で放送されてた、河合さんの言っていたことを思い出した。
いま世界の文明は一つのまとまってきているけれども、文化は多様である。よって文化差によってすれ違いや衝突が起きる場合もある。でもその「文化」とは、国というより本来個人に属するものであるから、個人レベルならば分かりあえるものなのではないか。そんなようなことをおっしゃっていた気がする。

あの本は「文化=国民文化」とはっきり規定して話を進めている。国レベルの分析、つまりどの国がどんな企業文化を好むかに焦点を当てている。それはそれで意義のある分析だ。
でも、「国民文化」というと、なにか揺るぎないもの、変えようのないもののように感じられる。型にいれられてもうすでに固まってしまったもののような。
その点、個人レベルの文化差にはまだ希望をかんじられる。それはきっと、個人レベルの文化というのが柔軟なもので、他者との出会いによって変化しうるものだから。


外国とのビジネスで摩擦が生じるとしたら、個人レベルでの文化差を克服しようとするまえに、お互い国民文化レベルでの文化差を意識してしまうからじゃないかなぁという仮説がぽわわんと生まれた。
ひとりの人として向き合う前に、「相手は〜人だからこうなのだ」という、文化差に対する一種の決め付けが頭にこびりついてしまうと、その枠の中でしか相手の言動をとらえられなくなる。特に政治的なことでもめている国どうしだと、余計にその二国間の「差」「対立」「相違」というものを意識してしまい、結局その意識が個人レベルでのぎすぎす感を生み出してしまう。
逆に、ひとりの人として受け入れることがお互いできれば、国民文化レベルの文化差の影響はかなり低くおさえることができるんではないかな。結局どんなビジネスだって人と人との間で行われることなのだから。


ちょっとidialistの癖がまた出てしまったから、もっと考えるべきことあるよーということを書きたいのだけど、もう体が眠すぎて持たないので今日はここまで。
はぁぁぁ書くってむずかしいなぁ。