平成中村座「法界坊」

を先週家族で見に行ってきた。歌舞伎自体2回目くらいだったので、かなり感激・・・
前半は歌舞伎ってこんなに笑えるものとは思えなかった〜というくらい笑ってたのに、
気付かないうちにどんどんおそろしい話に変わっていて、なかなか深かった。
色と欲にまみれて堕落していく法界坊の様は決してひとごとではなく、むしろ現代人の姿を写しているのかも。

その法界坊を見事に演じていた、エネルギーのかたまりみたいな勘三郎は言わずもがなだけど、扇雀の踊りも素晴らしかったし、勘太郎は終始かっこよかった。でもやっぱりおじさん好きのわたしには橋之助がたまらなかったな〜
芝居小屋風の会場のつくりもあって、みんなが一体になって楽しめてる感じがなんとも心地よかった。

ふたつまえの日記で

考えてたことを、谷川俊太郎さんがみごとに詩として表現してくれていた。

「分からない」
ココロは自分がわからない
悲しい嬉しい腹が立つ
そんなコトバで割り切れるなら
なんの苦労もないのだが


ココロはひそかに思っている
コトバにできないグチャグチャに
コトバが追いつけないハチャメチャに
ほんとのおれがかくれている


おれは黒でも白でもない
光と影が動きやまない灰の諧調
凪と嵐を繰り返す大波小波
決まり文句に殺されたくない!


だがコトバの檻から逃げ出して
心静かに瞑想してると
ココロはいつか迷走している(笑)

朝日新聞 11月7日 夕刊 4面)


最後の「(笑)」はもともとついていたものです(笑)
コトバにずっと向き合ってきた谷川さんに、自分の悩みを理解してもらえた気になってしまい、嬉しい。
ふと小学生の頃、詩をよんだりつくったりすることにはまってたことも思い出した。

夢のまた夢だけど

卒論+院試を終えたあとの旅行についてぼんやり夢想していたら、父に「アルハンブラ宮殿は一生に一回いったほうがいいぞー」といわれ、スペインに行きたくなってきた。
確かに、あの時代大好きなんだよね。レコンキスタ萌えw
あと、世界史上では変人扱いされているフリードリヒ2世も、歴史上の人物で一番くらいに好き。神聖ローマ皇帝でありながらここまでイスラム文化に入れ込んだ、彼の寛容さと追求心にあこがれる。
食事もおいしそうだしな〜はぁ〜〜いいなぁ。いまのうちにユーロ買っておこうかなぁ(笑)




もうすぐ

2008年も終わりが近づいているというのに、不思議なくらいの日記の少なさはなんだろう。
手書きでもごちょごちょ書いてるのだけど、目標くらいオープンにしてみよう。

  • 話そう

まわりで卒業間近な人たちとゆっくり過ごせるのも今学期だけ。
卒論の話から恋愛の話、文字通り下らない話までいっぱい話そう。
そんな時間がいまの私にとってはいちばん幸せな時間。
院の行ったら場所こそ変わらないけどまわりの人たちがかなり変わる気がして、今のうちに話しておきたいという気持ちに少しせかされているのかも。

  • まなぼう

来年北京大生と会えるときには、チャイ語である程度話せるようになりたいな。作文の授業+NHKで頑張る☆
あとは、経済だね。なかでもミクロをちゃんと勉強したい。数学も勉強しなおさないと。入試数学4点のわたしがどこまでがんばれるのかちょっとした見物でしょう(笑)・・

  • 書こう

卒論せまってきたよ。文献もだいぶ読めたし、そろそろ手をうごかしながら頭をひねっていかなきゃね。
実際これを書かないことには卒業もできんし、院入学もできない。こわいよーこわいよー
ほかでもなく、自分のために頑張ろう。
あとはこの日記もね。この前この日記に「水泳+スパルタ指導」で検索してきてる人がいてちょっとびっくりしたけど(笑)。意外な場所が役にたってたりするのでしょうか。

ことば

自分の中に言葉が足りないのか、

それとも言葉がありすぎるからなのか。

しっくりくる言葉を、なかなか見つけられない日々が続く。

言葉を使った仕事をしているわけでもないのに、なぜか言葉の選び方にひどく慎重な自分がいる。




最近、気持ちの伴わない言葉をすぐ感知するようになった。

気持ちにぴったりと張り付くような、その人の内側からしぼりだされたような言葉には、

なんともいえない、湿り気を帯びたような質感がある。

からからに乾いたうすっぺらな言葉に巻き込まれそうになると、

せめてもの抵抗を表そうと、

私は口をつぐんでしまう。

言葉をつむぎだすエネルギーが十分にあれば、

自分の言葉の湿り気を持って抵抗できるのだけれど、

なかなかそれができるときは少ない。




こんな小さな葛藤が、どんな人にも何回かはあるとすれば、

この世は「言葉」の形をとらない「ことば」であふれている。

それらは、涙だとか表情だとか、何かしらの形で外にでてこようとする。

なんだか「ことば」がきゅうに愛おしくなってくる。




海をみながらそんなことを考えた。

海にかぞえきれないほどの「ことば」がぷかぷかと浮いている絵を想像してみる。


海に向かってさけびたくなるのは、

「ことば」を波に乗せてどこかに遠くにやってしまいたいから?

それとも、「ことば」を「ことば」として受け入れてくれる懐の深さを感じるから?

なぜだろうね。





言葉にならない「ことば」のいとおしさを知っている人どうしは、


たいした言葉を交わさなくても、 


自然とそばによりそえるのかもしれない。

ミソスープ論

ミソスープはわたしにとっては特別な存在だ。
物心ついた頃から、毎朝当たり前のように飲んでいるけれど、それって実はすごいこと。
だって私の体の半分くらい、母の作ったミソスープでできてるんじゃない?笑
(それは言い過ぎかもしれないけど、間違いなく私の今の体は母の料理で成り立っているわけで、
それに気付いたときは衝撃だった。母・・・すごす!!!)

アメリカに一ヶ月留学したとき、毎朝のミソスープがないだけで最後のほうは発狂しそうになって、
仕方なくインスタントで飲んだミソスープがそれはそれは命の水のように感じられたほどおいしかった。
わたしにとって、不規則な生活の中でもあれが唯一変わらないもので、一種の精神安定剤だったんだなぁとそのとき思ったのです。


誰かをほっとさせたい。誰かの母のような存在になりたい。
そんなときに人はミソスープを作ってあげたくなるのかもしれない。


「お味噌汁」とかけばよいのに、何か「ミソスープ」で通したくなる、深夜3時なのでした。

男女と競争

昨日男女交えて友達と飲んでいて、男と女は競争に対する考えがまず違うよねっていう話になった。
このことは、就活をしていて初めて自分が女として生きていくことを意識したときに気付いたことかもしれない。


5月ごろたまたまおもろいなーと思って切り抜いていた新聞記事に同じようなことが書いてあって、

経済学者の間で注目を浴びてきている仮説で、「競争に対する嗜好に男女差があることが、高賃金所得を得る職業に就く比率に男女差を生み出す原因となっている」というものがあるそうな。
競争に対する嗜好というのをいろんな実験で確かめたらしく、その結果、男の子は競争させたほうがよい結果をだすけど、女の子は競争させてもさせなくても同じ結果だという。(例えば徒競走で実験したそう。)


ちなみにこの実験は日本とアメリカでは同じ結果、つまり男のほうが競争好きという結果がでたらしいんだけど、
母系社会であるインドのカシ族を対象にして同じ実験をしたところ、女のほうが競争好きという結果がでたそう。
ということは、必ずしも「女だから」という遺伝的なものではなくて、文化的なものが影響しているのだろうか?
フィリピンや北欧諸国で同じ実験をしたらやっぱり女のほうが競争好きという結果がでるのかしら?
気になる・・!!


で、友達と話していたのは、男は女の子にランク付けをしたりw、友達の彼女をどうしても評価してしまったり、また自分の彼女がどう評価されるかがとても気になるという点で、「競争」を意識してるんじゃないかと。
いっぽうで、女の子は友達の彼氏がいくらかっこよかろうが、ぶさいくだろうが、あんまり興味ない。男のランク付けにも意味を感じないし、自分の彼氏がどう評価されるかもあまり気にならない。人は人自分は自分だし、蓼食う虫も好き好きだし、と思っているから、「競争」の入り込む余地がない。


ただこの仮説も、日本の文化だとか自分の受けてきた教育だとかにすごく影響を受けているものだと思うので、違う国の人に聞いてみたらまた違うんだろうな。
おもしろそうである・・!!
この仮説の検証、卒論にできないかなw